昨日とは違う夜の気配。
薄い月明かりの中、ナミはそっとベッドを抜け出した。
隣ではロビンが小さな寝息を立てている。
敵だった海賊の船でのんびりくつろいでいただけあって、相当肝が据わっているようだ。
カウンターの脇に立って、ナミは室内を見渡した。
ロビンという闖入者が現れたわりに、ほとんど変化はない。
彼女は着の身着のままの状態だったから、物が増えなかったせいもあるだろう。
しかしきっと、彼女の性質に寄るところが大きいのだろうとナミは思う。
ひっそりと目立たずに生きてきた女。
周囲を窺い、同化することで身を守ってきた女。
けれど、昨日まで共に眠った彼女は違った。
いるだけで周囲が華やいだ。
表舞台で光を浴びて、まっすぐに生きていく。
そういう生き方こそ相応しい人。
…けれど。彼女は、もういない。
愛する国と共に生きていく。
彼女の下した決断に、異議を唱えるつもりはないのだけれど。
ひたひたと胸を冷やす感情に捕らわれて、ナミは息をつめる。
薄墨を落としたような闇に漂う昨日とは違う気配を感じながら。
ナミは、昨日までの夜を思い出そうとした。
こんな気持ちに捕らわれず、穏やかな眠りについていたはずの夜を。
それは、彼女のいた夜。
これからのことを話し合った夜。
他愛のない事で笑った夜を。
…だめだ。
カウンターから取り出した水を一気に飲み干して、思い直した。
そんなことをしたら、余計に眠れなくなってしまう。
どんなに思い返しても戻ってこないのだから。
だけど、このままベッドに戻っても、きっと眠れない。
外の空気でも吸おう。
ナミは裸足のまま、階段を昇って甲板に出た。
冷たい湿気をはらんだ風が、頬をなでる。
空には、寝待月。
控えめな光が辺りを照らす。
空を見上げて、深く、息を吸い込んだ。
甲板を一周したら、戻ろう。
そう思ったナミは、船首への階段を上がった。
しかし登り切る直前。その足が止まった。
「………あんた見張りじゃなかったの?」
そんな予感はしていた。
波のまにまに、混ざっていた音。
男部屋から聞こえてくるのとは違う距離感の、いびきだったから。
「脳味噌、腐るわよ?」
氷点下を思わせる声音だったが、相手に反応はない。
ナミはいつもと変わらぬ足取りで、船首に頭を向けて眠る男に近づいた。
「…聞いてんの?」
言いながら、ナミは顔を覗き込む。
閉じられた瞼。意外と長いまつげ。
鼻と鼻が触れ合うほどに顔を近づけても、寝息のリズムは変わらない。
眠れない自分とは、なんて対称的なのだろう。
「………聞いてる」
「…なっ…!」
突然、響いた低い声。
ナミは思わず飛び退いた。
「あ…起きてたの!?」
「今起きた」
男はそう言って、不機嫌そうに頭を掻いた。
「…ってアンタ、見張りでしょうが」
「何かありゃ起きる」
問題あるのか、という悪びれもしない態度に、ナミは溜息をついた。
「で、どうした」
「別に」
「そうか」
素っ気ないナミの態度も気にならないらしい。
浅いアクビをひとつして、再び男は目を閉じた。
それでも眠っていないことは一目瞭然で、ナミは隣に座り込んだ。
「ねえ、ゾロ」
小さな声で、名前を呼んだ。
「ん」
答える男の声も、大きくはなかった。
今度は、もう少し大きな声で呼ぶ。
「…ゾロ」
「だから、何だ」
苛立ちの混ざったゾロの声が、波音と共に響く。
ナミは目を伏せて、問いの言葉を紡ごうとした。
けれど、何かを思い出しかけて。
それが分かれば、問う必要などないような気がして、口をつぐんだ。
ゾロは先を促そうとはしなかった。
眠っているように目を閉じて、横になったままそこにいた。
ナミは引っかかりを覚えたまま、空を見上げて。
薄い雲の動きを、目で追った。
ぼんやりと天候の予想をしながら。
今までの日々を、思い出した。
「……あ」
そうだ。
「そうよね」
思い至った考えを、もう一度なぞってみる。
嵐の日のこと。それから数々の夜のことを。
思わず笑みをこぼしながら思い返して、納得した。
「何にやにやしてるんだ」
「別に」
いつものゾロなら、殺気のない人間が近づいたくらいで目を覚ましたりしない。
彼女との別れ際、あんなにクールなことを言っていたくせに。
この夜に違和感を覚えているのだ、多分。
「…気味悪ぃな」
「そう?」
そしてきっと、無自覚なのだ。
何て不器用で鈍感な男。
「ゾロ?」
「あ?」
「何で、こんなところで寝てたの?」
「? なんとなく」
「でしょうね」
ナミは、堪えきれない笑みをこぼす。
船首に背を向けて眠るのは、今までいた場所の方角に顔を向けるため…
「なんて、考えすぎかしら」
「何言ってんだ、お前」
「別にー」
ふふふ、と意味ありげに笑ったナミは、ゾロの胸に手を当てた。
そしてそっと、耳を寄せる。
規則正しい心臓の音が、ナミの鼓膜を打つ。
とくん、とくん。
それは変わらぬリズムで。
「ゾロ」
「なんだ」
訝しげな顔をしながらも、ゾロは黙ってナミの言葉を待った。
「あんたがいて良かったわ」
「どういう意味だ」
「分からなくていいの。黙って聞いときなさい」
ゾロは溜息をついて、ナミの言葉に従った。つまり沈黙を保って、目を閉じた。
ナミもそっと、目を閉じる。
規則正しい呼吸と鼓動の音がナミの鼓膜を優しく叩く。
ナミは安堵の息を吐いて、意識を闇に滑らせた。
-end.