火の付いていない煙草をくわえたまま、サンジは視線を上げた。
メリー号を泊めた入江から、町へと向かう一本道。
右手は草原、左手は森。そして道の彼方には町がある。
…はず、なのだが。
サンジは森と草原、交互に見やり、そして道に視線を戻す。
町が、見えない。
真白な空気が宙を漂い道の先を覆っているのだ。
「……霧か…」
苦々しげにつぶやいて、ポケットからマッチを取り出した。
短時間で随分深くなったものだ。
妙な感心をしながら、サンジは器用にマッチを擦る。
二度、三度。
空気が湿気ているせいで、火花は一瞬で消えてしまう。
四度、五度。
小気味よい音がして、軸が折れた。
諦めるか、新しい物を出すか。
考えたのは、ほんの一瞬。
背後に感じた気配に、振り向きざまの上段の蹴り。
視界はゼロに近い。目標は見えない。
けれど、確信。
相手の鼻っ面を、ギリギリでかすめる位置へ。
向こうもそれを読んでいるはず。わずかに上体を傾けるだろう。
それで互いに、ダメージはゼロ。
の、はずだった。
「!」
−靴が、重い。
異変に気付いて蹴りを止めようとしたが、既に遅かった。
「……っ」
嫌な感触。
同時に靴が、軽くなる。
小さな歯ぎしりに似た音。そして気配。
霧のせいで、姿は見えない。
けれど、今の手応えは。
「…おい!」
白い霧中に、手を伸ばす。
予想通りの位置にあった肩先を鷲掴みにして引き寄せた。
薄汚れた白いシャツに包まれた肩。そして腕。
続いて、俯き加減の緑の頭が現れた。
「大丈夫か?」
「…ああ」
舌打ち混じりの返答に、サンジは小さく安堵の息を漏らす。
ゾロはそれを聞き咎め、肩の手を振り払った。
「攻撃しといて心配か」
「いいから見せろ」
有無を言わさず顎に手をかけ正面を向かせる。
きつく閉じられた目の周囲には、湿気で固まった泥が散っていた。
予想通り。いや、それ以上か?
サンジは唇を噛みしめる。
あの時、半端に湿った土の固まりが靴裏に付着していたのだ。
“ギリギリで”当たらない計算をしていたのが仇になった。
顔の泥を手で拭ってやりながら、サンジは苦々しく思う。
しかしまさか、目に当たるとは。
「入ったのか?」
「多少な」
「痛むか?」
「別に」
「はっきり言え、バカ」
乱暴な口調とは裏腹な柔らかい声色。
「らしくない声だすな。調子が狂う」
そういうゾロの声にも、覇気がなかった。
サンジはゆっくり息を吐き、
「お前もだろ」
と言った。ゾロはそれに答えない。
代わりのように顔をしかめて目を擦ろうとした。
サンジは慌ててその手を押さえる。
「傷つくだろ」
「んな強く擦らねぇよ」
「お前が言うか、馬鹿力」
「加減くらい出来る」
不毛なやり取りに終止符を打つように、サンジはゾロの手を強く握った。
ゾロは溜息をついて、ゆっくりその場にしゃがみ込んだ。
「おい」
「どうせ、すぐにゃ晴れないだろ」
「?」
「この霧」
サンジは顔を上げて周囲をうかがった。
確かにゾロの言うとおり、晴れる気配は微塵もない。
深まる気配もなさそうなのが、救いといえば救いといえた。
「水で洗えりゃ良いんだが」
「近くにゃねぇだろ。それにこの霧じゃ、捜しようがねぇさ」
憎たらしいほど冷静な答え。
微かな苛立ちを覚えながら、サンジは繋いだままの手を見下ろした。
そして、その先にある腕と緑色の髪。
他のものは霧に隠れて見えない。
今、ゾロがどんな顔をしているのかも。
サンジは隣に腰を下ろし、顔を傾けた。
「ゾロ?」
視線の先で、何かが光った。
…涙?
衝動的に、ゾロの顎を掴んで上向かせた。
「…どうした」
顔をしかめてゾロは不平を漏らす。
目尻が微かに濡れている。
思わず指を這わせたサンジに、ゾロはつぶやくように尋ねた。
「何やってんだ」
サンジは答えない。
湿り気を感じる指先をそのままに、顔を寄せて、唇を近づけて。
そっと舌で、目尻から、目の縁をなぞった。
「な!」
動くな。
と、言う代わりにサンジはゾロの肩を掴む。
唾液を含ませた舌を尖らせ、慎重に。
「…んなことしなくても」
ほとんど取れてる。
掠れた声で、ゾロはつぶやいた。
サンジは聞こえないふりをして、そのまま舌を滑らせた。
ゾロは薄く笑って、強く閉じていた瞼から力を抜いた。
舌先が、するりと眼球に触れる。
それは思ったよりも温かく、微かに塩の味がした。
これはゾロの涙の味。
脳の片隅で、サンジは思う。
すると何故だか胸の奥が熱くなり、ゾロの肩に置いた手に力が入った。
ゾロは微かに首を傾け、つぶやいた。
「……大丈夫か?」
サンジはそっと身を剥がし、
「それを聞くのはおれだろう」
と言った。
ゾロは濡れた目蓋のまま、ゆっくりまばたきをした。
「そうかもな」
まだ泥が残っているようで、再び閉じた瞳の縁から涙がじわりと滲み出た。
それがほろりと零れる前に、サンジはそっと指で拭った。
「………」
そうして再び、サンジの舌が目尻に触れた。
今度は互いに無言のまま。
舌が目を潤し、ふと離れ。またたきをし。涙をこぼす。
脳が麻痺してしまったかのように、互いにそれだけを。
「………晴れてる」
不意に響いたゾロの声。
眠りから覚めたばかりのように朦朧とした意識のまま、サンジは舌を離して顔を見た。
ゾロは、唇に笑みを浮かべて言った。
「霧。晴れてる」
サンジは視線を上げた。
いつの間にか、明るい日差しが戻っている。
ゾロの肩に置いた手も、指の先まできちんと見えた。
その向こうに続く道の先も。
「…晴れたな」
森や草原の緑色がやけに鮮やかに見えて、サンジは目を細めた。
「ああ」
ゾロは二三度まばたきをして、つぶやくように言った。
「………ありがとう」
サンジは視線を戻してゾロを見た。
「え?」
「目。治った」
「…ああ」
それでもサンジは肩に手を置いたまま、ゾロの目をのぞきこむ。
「もう、治ったっつってんだろ」
「ああ」
ゾロの言葉を疑ってはいなかった。
気になったのは、それではなくて。
「……あ」
そうだったのか。
気付いたサンジは、ぱっと顔を背けて俯いた。
しかし、そのまま微動だにしない。
さすがにゾロは怪訝な声で問いかけた。
「コック?」
「…………………」
答えられるはずがない。
生唾をごくりと飲み込んで、息をゆっくりと吐き出して。
「行くか」
やっとの事でそう言うと、サンジは頭を掻きながら立ち上がった。
「…ああ」
不審な顔をしながらも、それに習ってゾロも立ち上がる。
言えるわけがない。
煙草をくわえながらサンジはひとりごちる。
朱に染まった目尻を、もっと舐めていたかったなんて。
それは、その気持ちは。
「…くそっ」
サンジは舌打ちと同時に、マッチを擦った。
「………ずっと霧が出てりゃ良かったんだ」
そうすれば。
何も見えずにあのままでいられたのに。
「そうもいかねぇ、か」
炎を煙草に移しながら、サンジは自嘲気味な笑みを浮かべて、とりあえず。
「町はそっちじゃねぇよ、クソ剣士!」
「おれは帰るんだ」
「なおさらそっちじゃねぇって」
晴れた世界を歩く剣士の背中を捕まえて、どうにか隣を歩かせて。
明確になった想いを抱えて、互いの距離を測るのだ。
-end.