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××× 001 : クリア ×××


 火の付いていない煙草をくわえたまま、サンジは視線を上げた。
 メリー号を泊めた入江から、町へと向かう一本道。
 右手は草原、左手は森。そして道の彼方には町がある。
 …はず、なのだが。
 サンジは森と草原、交互に見やり、そして道に視線を戻す。
 町が、見えない。
 真白な空気が宙を漂い道の先を覆っているのだ。
「……霧か…」
 苦々しげにつぶやいて、ポケットからマッチを取り出した。
 短時間で随分深くなったものだ。
 妙な感心をしながら、サンジは器用にマッチを擦る。
 二度、三度。
 空気が湿気ているせいで、火花は一瞬で消えてしまう。
 四度、五度。
 小気味よい音がして、軸が折れた。
 諦めるか、新しい物を出すか。
 考えたのは、ほんの一瞬。
 背後に感じた気配に、振り向きざまの上段の蹴り。
 視界はゼロに近い。目標は見えない。
 けれど、確信。
 相手の鼻っ面を、ギリギリでかすめる位置へ。
 向こうもそれを読んでいるはず。わずかに上体を傾けるだろう。
 それで互いに、ダメージはゼロ。
 の、はずだった。
「!」
 −靴が、重い。
 異変に気付いて蹴りを止めようとしたが、既に遅かった。
「……っ」
 嫌な感触。
 同時に靴が、軽くなる。
 小さな歯ぎしりに似た音。そして気配。
 霧のせいで、姿は見えない。
 けれど、今の手応えは。
「…おい!」
 白い霧中に、手を伸ばす。
 予想通りの位置にあった肩先を鷲掴みにして引き寄せた。
 薄汚れた白いシャツに包まれた肩。そして腕。
 続いて、俯き加減の緑の頭が現れた。
「大丈夫か?」
「…ああ」
 舌打ち混じりの返答に、サンジは小さく安堵の息を漏らす。
 ゾロはそれを聞き咎め、肩の手を振り払った。
「攻撃しといて心配か」
「いいから見せろ」
 有無を言わさず顎に手をかけ正面を向かせる。
 きつく閉じられた目の周囲には、湿気で固まった泥が散っていた。
 予想通り。いや、それ以上か?
 サンジは唇を噛みしめる。
 あの時、半端に湿った土の固まりが靴裏に付着していたのだ。
 “ギリギリで”当たらない計算をしていたのが仇になった。
 顔の泥を手で拭ってやりながら、サンジは苦々しく思う。
 しかしまさか、目に当たるとは。
「入ったのか?」
「多少な」
「痛むか?」
「別に」
「はっきり言え、バカ」
 乱暴な口調とは裏腹な柔らかい声色。
「らしくない声だすな。調子が狂う」
 そういうゾロの声にも、覇気がなかった。
 サンジはゆっくり息を吐き、
「お前もだろ」
 と言った。ゾロはそれに答えない。
 代わりのように顔をしかめて目を擦ろうとした。
 サンジは慌ててその手を押さえる。
「傷つくだろ」
「んな強く擦らねぇよ」
「お前が言うか、馬鹿力」
「加減くらい出来る」
 不毛なやり取りに終止符を打つように、サンジはゾロの手を強く握った。
 ゾロは溜息をついて、ゆっくりその場にしゃがみ込んだ。
「おい」
「どうせ、すぐにゃ晴れないだろ」
「?」
「この霧」
 サンジは顔を上げて周囲をうかがった。
 確かにゾロの言うとおり、晴れる気配は微塵もない。
 深まる気配もなさそうなのが、救いといえば救いといえた。
「水で洗えりゃ良いんだが」
「近くにゃねぇだろ。それにこの霧じゃ、捜しようがねぇさ」
 憎たらしいほど冷静な答え。
 微かな苛立ちを覚えながら、サンジは繋いだままの手を見下ろした。
 そして、その先にある腕と緑色の髪。
 他のものは霧に隠れて見えない。
 今、ゾロがどんな顔をしているのかも。
 サンジは隣に腰を下ろし、顔を傾けた。
「ゾロ?」
 視線の先で、何かが光った。
 …涙?
 衝動的に、ゾロの顎を掴んで上向かせた。
「…どうした」
 顔をしかめてゾロは不平を漏らす。
 目尻が微かに濡れている。
 思わず指を這わせたサンジに、ゾロはつぶやくように尋ねた。
「何やってんだ」
 サンジは答えない。
 湿り気を感じる指先をそのままに、顔を寄せて、唇を近づけて。
 そっと舌で、目尻から、目の縁をなぞった。
「な!」
 動くな。
 と、言う代わりにサンジはゾロの肩を掴む。
 唾液を含ませた舌を尖らせ、慎重に。
「…んなことしなくても」
 ほとんど取れてる。
 掠れた声で、ゾロはつぶやいた。
 サンジは聞こえないふりをして、そのまま舌を滑らせた。
 ゾロは薄く笑って、強く閉じていた瞼から力を抜いた。
 舌先が、するりと眼球に触れる。
 それは思ったよりも温かく、微かに塩の味がした。
 これはゾロの涙の味。
 脳の片隅で、サンジは思う。
 すると何故だか胸の奥が熱くなり、ゾロの肩に置いた手に力が入った。
 ゾロは微かに首を傾け、つぶやいた。
「……大丈夫か?」
 サンジはそっと身を剥がし、
「それを聞くのはおれだろう」
 と言った。
 ゾロは濡れた目蓋のまま、ゆっくりまばたきをした。
「そうかもな」
 まだ泥が残っているようで、再び閉じた瞳の縁から涙がじわりと滲み出た。
 それがほろりと零れる前に、サンジはそっと指で拭った。
「………」
 そうして再び、サンジの舌が目尻に触れた。
 今度は互いに無言のまま。
 舌が目を潤し、ふと離れ。またたきをし。涙をこぼす。
 脳が麻痺してしまったかのように、互いにそれだけを。
「………晴れてる」
 不意に響いたゾロの声。
 眠りから覚めたばかりのように朦朧とした意識のまま、サンジは舌を離して顔を見た。
 ゾロは、唇に笑みを浮かべて言った。
「霧。晴れてる」
 サンジは視線を上げた。
 いつの間にか、明るい日差しが戻っている。
 ゾロの肩に置いた手も、指の先まできちんと見えた。
 その向こうに続く道の先も。
「…晴れたな」
 森や草原の緑色がやけに鮮やかに見えて、サンジは目を細めた。
「ああ」
 ゾロは二三度まばたきをして、つぶやくように言った。
「………ありがとう」
 サンジは視線を戻してゾロを見た。
「え?」
「目。治った」
「…ああ」
 それでもサンジは肩に手を置いたまま、ゾロの目をのぞきこむ。
「もう、治ったっつってんだろ」
「ああ」
 ゾロの言葉を疑ってはいなかった。
 気になったのは、それではなくて。
「……あ」
 そうだったのか。
 気付いたサンジは、ぱっと顔を背けて俯いた。
 しかし、そのまま微動だにしない。
 さすがにゾロは怪訝な声で問いかけた。
「コック?」
「…………………」
 答えられるはずがない。
 生唾をごくりと飲み込んで、息をゆっくりと吐き出して。
「行くか」
 やっとの事でそう言うと、サンジは頭を掻きながら立ち上がった。
「…ああ」
 不審な顔をしながらも、それに習ってゾロも立ち上がる。
 言えるわけがない。
 煙草をくわえながらサンジはひとりごちる。
 朱に染まった目尻を、もっと舐めていたかったなんて。
 それは、その気持ちは。
「…くそっ」
 サンジは舌打ちと同時に、マッチを擦った。
「………ずっと霧が出てりゃ良かったんだ」
 そうすれば。
 何も見えずにあのままでいられたのに。
「そうもいかねぇ、か」
 炎を煙草に移しながら、サンジは自嘲気味な笑みを浮かべて、とりあえず。
「町はそっちじゃねぇよ、クソ剣士!」
「おれは帰るんだ」
「なおさらそっちじゃねぇって」
 晴れた世界を歩く剣士の背中を捕まえて、どうにか隣を歩かせて。
 明確になった想いを抱えて、互いの距離を測るのだ。



 -end.

 “視界が明瞭になる”と“気持ちが明確になる”という意味で“クリア”です。
  (2006.1.11)


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