キッチンの扉が開いた。
サンジは振り返らず、鍋の火加減を見ていた。
誰が入ってきたかのかは、分かっていたから。
気配はゆるやかな歩調で、まっすぐにワインラックへ向かっている。
苦笑を漏らして鍋の蓋を閉じた。
「酒はダメだぞ」
「飲むわけじゃねぇ」
おかしな事を言うものだ。
「じゃ、どうするってんだ」
「足にかける」
「は?」
バカが付くほどの酒好きが、飲まずに足にかけるって?
サンジは驚いて振り返り、そして目に入った状況に言葉を失った。
「…お、おま…」
ゾロは一向に介す様子もなく、ワインラックを物色し始めた。
「もっと強いヤツねぇのか」
「そういう問題か!」
流しに置いたタオルを掴み、サンジはゾロの足元に屈む。
「こんな血ぃ垂れ流して歩くんじゃねぇ、アホか!」
踝の、少し上。
真一文字に走る刀傷。
真っ赤な血が、ゆるやかに、けれど止めどなく流れ出て、歩いた道筋そのままに赤い川ができていた。
白いタオルで押さえると、見る間に深紅が広がった。
「先に止血だろうが」
「だから酒」
酒で消毒するつもりなのか。
「何だっていいから、とにかく座れ」
肩を掴んで近くのイスに、引きずり倒すように座らせた。
「消毒薬はどうした」
「使い切った」
だからここに来たんだろ、と続けるゾロをサンジは睨み付けた。
「とにかく、押さえとけ」
紅に染まったタオルを押しつけて、サンジは流しの下から透明な酒瓶と新しいタオルを出した。
「手、どけてみ」
「ああ」
滴が垂れそうなほど血を吸ったタオルを取ると、やはり赤色に染まりきった包帯が現れた。
「お前、ちゃんと止血したか?」
「当たり前だ」
「じゃ、なんでこんなになるんだ」
「さあ」
「さあ、じゃねぇだろうが」
バカが。
サンジのつぶやきを聞きとがめてゾロは言う。
「貸せ。自分でやる」
「自分でやったから、こうなったんだろうが。おとなしくしてろ」
口の中でぶつぶつと、サンジは文句を吐き出しながら包帯を解く。
分が悪いと悟ったのか、ゾロはおとなしくそれを見ていた。
「…っとにな…」
サンジの文句は止まらない。けれど口から外に出ることはなく、その内容は分からない。
「…面倒くせぇ」
吐き出すようなゾロの声。
サンジは無言のまま、解いた包帯をぐちゃぐちゃと丸める。
「はっきり言え。文句があるんだろ?」
ゾロの言葉が耳にまとわりつく。
手には、乾いた血と濡れた血の混ざった嫌な感触。
ちくちくと。ぬるりと。
解けてゆくに従って、ぬるりとした感触が増していく。
それに比例して鉄の臭いが強くなる。
「…あーあるな山のようにな」
解ききった包帯を、サンジは床に叩き付けた。
「足切り落とす? それでどうするつもりだったんだ」
「どうって」
「足なくすってことが、どんなことか分かってんのか?」
ゾロは口元に、笑みを灯した。
「そんなの決まってる」
「どう決まってるってんだ」
「戦って、勝ってた」
「……大層な自信だな」
呆れた声で漏らすサンジに、ゾロは淡々と続ける。
「当たり前だ。じゃなきゃ、足を落とす意味がねぇ」
「へぇ? 大剣豪さまは、その時だけ勝ちゃあ良いってかい?」
「……他に方法がなかった。それは今でも思う。だが…」
「だが?」
ゾロは微かな笑みを見せた。
「今は全部切らずに済んで良かったと思う」
思いがけない言葉に、サンジはゾロの顔を見つめる。
「おまえ…」
熱でもあるんじゃないのか?
と、言おうとしたのだが。
「また、あんなことになったら躊躇わずに切り落とすが…」
「落とすのかよ!」
一瞬で怒りが頂点に達したサンジは、手にした酒瓶を一気に傾け中味を口に含んだ。
そして、不思議そうな瞳をしたゾロを睨み付け、傷口に向かってそれを吹きかけた。
「……! てめ…!」
酒瓶の中味は、料理酒。ワインなどより純度は高いが、消毒用アルコールより遥かにしみて痛いはずだ。
「…ホントに落としたら、こんな痛みじゃ済まねぇぞ、ばーか」
「………分かってる」
手の甲で口元を拭うサンジは歪んだ笑みを見せた。
「本当かねぇ」
「分かってる」
そう言うゾロの顔は憎たらしいほど平静。
サンジは小さく舌打ちし、酒を染み込ませたタオルでわざと乱暴に傷口を拭いてみた。
ゾロはわずかに身動ぎをしたが、声ひとつ上げはしなかった。
それが余計に憎らしい。
手をゆるめずに続けて包帯を巻く。
ゾロは変わらず、声をあげない。
ただ黙々と作業は続けられた。その間、誰もキッチンに来る者はなかった。
包帯の端を丁寧に結んで、サンジは立ち上がった。
「終わったぞ」
「ありがとう」
ゾロは足首を眇め、軽く動かしてからゆっくり立ち上がった。
「……コック」
「なんだ」
汚れたタオルを拾っていたサンジが視線を上げる。
ゾロはそれをすくい上げるように見つめて言った。
「そうしなくて済むように腕を上げる」
「…?」
怪訝な顔をするサンジに、ゾロは薄く笑った。
「さっきの続きだ」
「…さっき?」
あ。
『また、あんなことになったら躊躇わずに切り落とすが』?
あれの、続き?
「………だから落とすなっての…」
まったく分かっちゃいない。
口の中でサンジはぼやく。
当の本人は気付いているのかいないのか、ゆったりとした足取りで戸口へ向かった。
「おい、話済んでねぇぞ」
非難の混じった声に、ゾロは首だけで振り返り、
「心配させて悪かったな」
と言った。
「…だれがっ…!」
頬を紅潮させて叫ぶサンジの姿に、ゾロは満足そうな笑みを浮かべ、律儀に戸を閉め出ていった。
「………調子に乗りやがって…ったく」
サンジは苦々しげに呟いて、拾ったタオルを流しに投げた。
-end.