潮の匂い。
別に珍しくも何ともない。いつも嗅いでいる匂いだ。
しかし、船上にはない匂いが混ざっている。
湿った木々と、花の匂い。
ここは、どこだ?
ゆっくりと目を開けたサンジは、周囲を見回した。
小さな漁小屋のようだ。
潮で傷んだ木の板でできた壁。床も同じ木の板。
壊れ欠けた手漕ぎボートが、腹を見せて鎮座している。
どうして自分がこんなところに居るのか、サンジは皆目検討がつかなかった。
「起きたか」
眩しい光が射し込んで、扉が開いた。
「何か食える物ないかと思ったが、良く分からねぇな」
そう言って後ろ手に扉を閉めたのは。
「…ゾロ」
「あ?」
首を傾げながら、ゾロは正面に腰をおろした。
ふわり、と甘い匂いが鼻をくすぐる。
「お前、どこ行ってたんだ?」
「だから、食い物捜し」
「いや…そうじゃなくて」
サンジは手を突いて身を乗り出し、息を深く吸い込んだ。
「甘い匂いがするから」
果物のような、花のような、記憶にはない香り。
「知らない間に、果物とか踏んづけたんじゃねえのか?」
食えるもの探しに行ったくせに、間抜けなヤツ。
鼻で笑うサンジに、ゾロは真顔で、
「そんなはずはねえ」
と言った。
「でも匂う」
「そうか?」
訝しげな顔をしたゾロは腕を持ち上げ、鼻に近づけ匂いを確かめた。
「何も匂わねぇが」
「そりゃ自分じゃわからねえさ」
サンジはもう一度、深く息を吸い込んだ。
甘い匂い。
脳の芯を突くほどに。
嗅いだことのない匂い。
これは一体、なんだ?
無心で記憶を探るサンジは、徐々に間合いを詰めていく。
「…おいコック」
「ん…」
答える声は、上の空。ゾロは天を仰いで溜息をついた。
「そんなに気になんのか?」
「んー…食えそうな匂いなんだよな…」
知らない食材かもしれない。その可能性がサンジの心をくすぐるのだ。
「そうかもしれねえが、この体勢、なんとかしろ」
「ん…」
ゾロの非難も、やはり聞こえないらしい。
サンジはますます間合いを詰めていく。
両手はゾロの肩を押さえつけ、鼻先は首筋に触れようとしていた。
「…うーん…」
そこでサンジは深く、息を吸い込んで。
「…すげ、甘い。…なんだ…?」
と、つぶやいて、舌を首筋に。
「な…!」
「動くな」
有無を言わせぬサンジの声に、ゾロは黙った。
山盛りの苦虫を噛み潰したような顔をしたが、サンジは気にも止めない。
そもそも、目に入っていない。
「……? 果実の類にしちゃ酸味が薄いし…」
ぶつぶつ言いながらサンジは再び、舌を這わせる。
「……おい…」
「黙ってろ」
うっとりするほどの、甘味。
微かに含んだ粘り気と共に、舌の上に残る。
「…く……」
より強い甘味を求めて、サンジの舌はおとがいを通って、耳へ。
「ちょ…やめろ…」
鼻先にピアスが触れる。
「おい、サンジ!」
目が、覚めた。
「起きたか」
触れんばかりの距離にゾロの顔があった。
背後から、強い日差しが差し込んでいる。
冷たいピアスが、鼻先で揺れた。
「こんなところでお昼寝か?」
唇の端に笑みを浮かべて、ゾロは顔を離した。
「…?」
身を起こして周囲を見回す。
ゴーイングメリー号の、甲板の上。
太陽は中天を越えたくらい。
さっきのは、夢か。
湿った漁小屋の空気を思い出しながら、サンジは思った。
サンジの心ここに在らず、といった様子を見て、珍しくゾロは気遣わしげな声をかけた。
「…日射病か?」
「いや…そうかもな…」
否定とも肯定とも取れない言い方だ。
「どっちだ」
「かも、しれねぇ」
どちらにせよ調子が悪いということだろう。
ゾロはそう判断して、苦笑いを浮かべながら手を貸すことにした。
「ほら」
「あ?」
「手。とりあえず日陰に入っとけ」
「……」
サンジはおとなしく手を取った。
憎まれ口のひとつでも叩いて断ろうと思ったのだが、実際、足先から腰にかけて力が入らなかったのだ。
しっかり掴まれた手が力強く引かれて、壁に寄りかかるように立たされた。
「肩も貸すか?」
からかう様に笑ったゾロが、一歩近づいた。
「…?」
サンジは首を傾げた。
目の前の男から、不釣合いな甘い匂いが、したような気がしたのだ。
けれど、そんなはずはない。
匂いがしていたのは、夢の中の話だ。
それに、あんな匂いが現実にあるわけがない。
サンジは自分に言い聞かせた。
「コック?」
珍しく、心配げな声がかかった。
顔を上げると、目の前でピアスが揺れていた。
「どうした」
もう一度、ゾロは案ずるように言ったが、サンジの耳には届かなかった。
妙な熱を含んだ瞳をピアスに固定したまま、心ここにあらずと言った風情で、何の反応も示さない。
そして、耳を。おとがいを。首筋を。
夢の中で、自分の舌がなぞった場所を、今度は視線で逆に辿った。
「……ああ」
気まぐれな蝶のような視線をゾロの唇に止まらせて、サンジは口元に笑みを浮かべた。
「…?」
サンジは確信していた。
あの匂いは、鼻で感じたものではないと。
あれは。
「…しょーもねぇ」
思わず喉の奥から笑い声が漏れた。
「……気色悪りぃな」
苦虫を噛み潰したような顔をして、ゾロが言ったので。
「そうか?」
じゃ、キモチ良くしてやろうか。
なんてあまりにも陳腐なセリフを言おうとしたけれど、飲み込んで。
サンジは無言のまま、顔を近づけた。
「…!」
ゾロは何か言いかけたが、声も言葉も口内に閉じ込めた。
代わりに鋭い瞳が睨んだ。が、にやりと笑って舌を絡める。
ゆっくりと。顔の角度を変えて、深く深く。
口角が、じっとりと漏れる唾液で濡れていく。
それでもふたりは離れない。
「…ふ……」
漏れる息はどちらのものか。
ただ一心に、唇を。舌を。
絡めてもつれて、むさぼりあって。
寄せては返す波のような刺激に、脳の奥を痺れさせて。
どんな蜜よりも美酒よりも。
甘くて濃厚な、快楽。
それは何処にもない、ふたりだけの蜜。
-end.