01
鼻をつくアンモニア臭。
不快だが、懐かしい匂いでゾロは目を覚ました。
「あら起きたの?」
トゲを含んだ女の声。一味の紅一点、ナミだ。
「みんな降りたわよ。あんたは?」
ゴーイングメリー号は現在“偉大なる航路”の入り口へ船を進めている途中だ。
「…ん…?」
ゾロは欠伸を噛み殺して辺りを見回した。
波はほとんどなく、黄色に染まった森にかこまれている。
どうやらここは小さな湾内らしい。
中天にかかった陽はおだやかで、思わず眠気を誘う。
「補給に丁度良さそうな町があるから寄るって話、覚えてないの?」
「……?」
そう言えば夕食時にそんな話が出ていたような。
ゾロはおぼろげな記憶を掘り起こした。
「で、降りるの? 降りないの?」
「……」
ゾロは無言のまま答えない。
「ちょっとゾロ!」
ゾロの意識から、怒りを含んだナミの声が遠のいていく。
「行きたいとこあ…ったら……」
そうして口から洩れた返事は、いびきになって消えた。
ナミは、ため息をついた。
「じゃ、行くわよ。船番お願いね!」
当然、返事はない。
「…それにしても、よくこんな臭いところで眠れるわねぇ」
眠りの海を漂うゾロに、そのつぶやきは届かなかった。
「ゾロ!」
呼ぶ声がする。
「ゾーロ!」
知っている声。懐かしい声。
道場のみんなと、それと。
「くいな」
「ゾロ、銀杏取りに行くよ」
黒い髪の少女。
「お前なんかと一緒に行けるかよ」
「へぇ〜、ゾロ、銀杏拾いでも私に負けるのがイヤなんだ?」
「なんだと!」
「じゃあ行こう」
そう言って、くいなは笑った。
「たくさん拾った方が勝ちだからな!」
「へぇ? それって数で? それとも重さで?」
「両方だ!」
みんなで森へ、走る。
金色の葉がはらはらと舞い落ち、強烈な臭いを放つ実が散らばっている。
イチョウの森。
秋に、道場のみんなで銀杏を拾った場所。
「相変わらず、くっせー、な!」
「イヤなら帰りなよ。不戦敗で良ければね」
「イヤだなんて言ってねーよ!」
くだらない言い合いをしながら走り回った。
臭いは嫌いだったが、みんなで拾う楽しさはそれを補って余りあった。
……あれは、いつのことだ?
アンモニアとは違う刺激臭。
何だ、と思う間もなく、それはゾロの気管を刺激した。
「…がほっげほげほげほ!」
「目ぇ覚めたか?」
こらえきれずにむせるのと同時に降ってきたのは、不愉快な嫌味ったらしい声。
視界を覆うのは白い煙。
声の主はタバコを手にしたまま、ゾロを見下ろしニヤニヤ笑いを浮かべている。
足元には大きな袋と箱。どうやら買い出しから戻ったところのようだ。
「…てめ…げほがほ…!」
怒鳴りつけようとしたゾロの気管を、再び紫煙が襲った。
にじむ涙の向こうで、一味唯一の喫煙者サンジが笑みを崩さずタバコをくわえた。
「そんなに寝てると、目ぇ溶けるぞ」
「んなわけあるか」
サンジは再び、にやりと笑う。
そしてタバコを口から離し、ゾロの顔面めがけて白い煙を吹きかけた。
「げほがほげほっ…てめ…!」
「よける余裕もねぇほど爆睡か〜?」
「寝起きにつけ込むしか出来ねぇくせに、何言ってやがる」
「関係ねぇだろ。油断してる方が悪い」
「んだと」
「戦るか?」
瞬間、不毛なにらみ合いの間を何かがかすめた。
「誰だ!」
ふたりは同時に飛び退いて、その方角を睨んだ。
丁度、船を見下ろす岸の上。距離にして数メートル。
「ちっくしょ〜はずれか〜」
「やーいウソップの下手くそー」
聞き慣れた声に、ふたりは視線を絡ませた。
「黙れ! じゃーお前がやれよルフィ」
「おぉ、見てろ!」
言葉と同時に、不自然なほど長い腕が宙を横切った。
手には黄色くて丸い物。
「見せんでいい!」
「あほかお前は!」
長い足が宙の腕を蹴り落とし、白い鞘が甲板の樽を崖上に放つ。
「へぶっ」
「うあ〜っルフィ!」
見事なコンビネーションを見せたふたりは、ため息をついて崖上を睨み付けた。
「それっくらい、どってことねぇだろ。出て来いふたりとも」
「ふぁ〜い」
茂みにでも隠れていたのだろう。がさがさと大きな音をさせてから、ルフィとウソップは姿を見せた。
「ウソップが外したからだぞ」
「ルフィがあんなに腕伸ばしたからだろ! あれじゃ丸分かりじゃねえか」
「腕出さずにどうやって投げんだ?」
「あんなに伸ばさなくったっていいだろ」
このふたりのやり取りも不毛としか言いようがない。
ため息をついて、サンジは二人の会話を遮った。
「どーでもいいが、何を投げつけてくれたんだ?」
「これだ!」
無駄に元気な返事と共に、ルフィはそれを放り投げた。
「投げんな、んなもん!」
と言いながらもゾロは、それを片手で受けた。
「よく掴めるな、そんな臭いもの」
サンジがそう言うのも無理はない。
それはさきほどから漂っているアンモニア臭の元、イチョウの木の実だった。
「臭いだけじゃないぞ、汁がぬるぬるしてて掴みにくいんだ」
崖上でウソップが言えば、頷きながらルフィが続けた。
「だから手が滑って的を外しちまうんだよな」
「じゃ、まだ潰れてないのを捜せばいいんじゃねぇか?」
「それじゃ、あんま臭くねぇじゃん」
「ばっか、当たりゃ勝手に破けるだろ?」
「うぉ、まさに爆弾!」
イタズラ小僧のやりとりに、サンジは呆れて黙り込んだ。
ゾロは木の実を一瞥し、崖上に投げ返しながら言った。
「あほ、こんなの素手で掴むな。かぶれるぞ」
「そう言われると、なんだかかゆいような?」
「だったらなおさらだ。手ぇ洗って来い」
「そっか、分かった」
そう言ってふたりは、あっさりと姿を消した。
「やれやれ」
「っとに、しょうがねぇなあアイツらは」
残ったふたりは苦笑をもらし合った。
「…そういやぁ」
新しいタバコをくわえたサンジがつぶやいた。
ゾロは視線だけで先を促す。
「お前、何でそんなこと知ってるんだ?」
「そんなこと?」
「イチョウの汁は、かぶれるってこと」
そう言ってサンジはマッチの炎をタバコに移し、美味そうに煙を吐いた。
別に深い興味を抱いたわけではない。
ただ、刀を振るうことしか考えていなさそうなこの男が、どこでそんな知識を身に付けたのだろうと思っただけだった。
ゾロにとってもどうでも良いことだったらしい。
一ミリも動かぬ表情の下で「ああ」とつぶやいてから、
「おれの故郷にもあったからな」
と答えた。
「へぇ?」
故郷だって?
サンジは思考を巡らせる。
イチョウの木が生えている場所は少ない。この世界に二カ所しかないという。
一カ所はここで、もう一カ所は…
「少し早いな、ここは」
ゾロがぽつりともらした言葉が、サンジの思考を遮った。
「早い?」
「ああ。故郷だと、確か十一月の終わりくらいだった」
「よく覚えてるな」
「誕生日が終わってからだから、なんとなくな」
サンジの指からタバコが落ちかける。
「誕生日?」
「ああ」
「誰の?」
執拗な問いかけに、ゾロは眉間にシワを寄せる。
「おれのに決まってる」
「……決まってるって…!」
「何だ? おれに誕生日なんかねぇもんと思ってたか」
「いや…そうじゃねぇ」
サンジは短くなったタバコを深く吸ってから落として、踏み付けた。
訝しげな視線を感じながら一息ついて、言った。
「で? それ、何日?」
「それ?」
「お前の誕生日の話だろうが」
「ああ? 十一日」
それが何だ? とばかりの言葉。
サンジは再び、深く息を吸った。
十一日。それは…
「今日じゃねぇか」
「あ?」
声が小さすぎて聞こえなかったらしい。
サンジは顔を上げ、焼き殺しそうな視線と声を放った。
「早く言えっつったんだクソ野郎!」
「んだと?」
反射的に、ゾロは柄に手を掛けた。
が。
予想に反してサンジはくるりと踵を返し、あっと言う間に船から飛び降りた。
「…なんなんだ、ありゃ…」
つぶやきながら、ゾロは思った。
見間違いでなければ、あれは。
泣きそうな顔ってヤツではなかっただろうか。
しかし、一体何故?
ゾロは首を傾げたが、やがて腰を下ろして眠りの海を漂い始めた。
→ 02へつづく