※ 時間的には“052:フレンチトースト”の続きにあたりますが、読まずとも平気。
五分後。
確かにそう言ったよな、とサンジは思い出す。
コックの意地にかけて出来たてを食べさせようと、まだ火にかけていないフレンチトーストを前にして。
嵐の中を一晩歩き続けたゾロをシャワーに追い立てながら言ったはずだ。確かに。
濡れたまま食事なんかするもんじゃないと思ったのと、空腹な人間をそれ以上待たせる気にはなれなかったから。
壁の時計を見直す。どう見ても、ゆうに三十分は経っている。
「…まさか、迷ったんじゃあ、ねぇだろうな…」
くわえたタバコのフィルターを噛みながら、充分あり得るとサンジは思う。
旅に出て、自分の故郷にすら帰れなくなった男だ。
メリー号の中で迷わないのが不思議なくらいなヤツだ。
初めて泊まった宿の中で迷うなんて、それこそ朝飯前だ。
どうしたものかとタバコを燻らせる。
朝食の下拵えは全て完了。あとは全員、起きてくるのを待つばかり。
そんな微妙な時間。
「……………部屋、行ってみっか」
タバコを灰皿に押しつけて、サンジはキッチンを出て階段を昇る。
この宿屋は三階建て。
一階は酒場兼キッチン、二階は客室、三階は主人夫妻のプライベートルームという造りだ。
客室は四部屋あり、四人部屋がふたつ、残り二部屋が二人部屋。
四人部屋に男たち、二人部屋に女性陣。これで二階の半分。残り半分は空室。
つまり現在、麦わらの一味の貸し切り状態。
間違えて他の部屋に入っても、他人に迷惑をかけることはないはずだ。
「…三階に行っちまってたら、その限りじゃねぇが…」
つぶやきながら、まず男部屋へ。
「おお、朝飯出来たのか?」
既に目を覚ましていたルフィが朝に相応しい笑顔を向けてきた。
「準備は出来てる」
「そーか! 下だな!」
ルフィはサンジを押し退け、部屋を出ようとした。
その肩を、サンジは捕らえて尋ねた。
「おい、マリモは?」
「? ゾロ?」
「帰ってねぇのか?」
「んん? ウソップ見たか?」
ベッドの脇でシャツを着ていたウソップが顔を上げた。
「いや。どっか迷ってるんじゃねーの?」
「そうか」
ということは、空き部屋にいるのだろうか。
「だーいじょうぶだって、ゾロだもんな!」
「おまえのその自信は何処から来るんだ」
「何処って言われてもなー?」
首を傾げながらもルフィはスタスタ部屋を出る。
「ま、メシ食ったら分かるだろ」
「おおいルフィ! 待てって!」
最後のボタンを止め終えて、ウソップは慌てて後を追う。
「全部食っちまう気だろ! 待てよルフィ!」
サンジも慌てて廊下へ出て女部屋をノックした。
「ナミさん! 起きてる?」
「なぁに? うるさいわねぇ」
勢い良く開いた扉から、ナミが顔を出した。
顔を洗っていたところらしく、前髪が少し濡れていた。
「ああ! 今日もナミさんは-」
「はいはいキレイなのは知ってるから用件は?」
賞賛の言葉を遮られたサンジは、不満げに口を尖らせた。
「あー…朝食の準備が出来たんだけど、ルフィが…」
「それを早く言ってよ! ちょっとルフィ!」
全てを言い終える前に状況を察したナミは、あっという間に階下へ走っていった。
「あー…」
ゾロを知らない? と聞く方が先だっただろうか。
「……ま、女部屋にはいないだろうな」
もしゾロが扉を開けていたら、その時点でナミの大声が響き渡っただろう。
そう考えたサンジは隣の部屋を覗いた。
二人部屋の方の、空室。
しかし、誰もいない。
四人部屋の方か、と扉を閉めかけたサンジだったが、バスルームに妙な空気を感じて止まった。
「…?」
この宿は全ての部屋に小さいユニットバスとトイレが付いている。
勿論シャワーも付いている。時間に関係なくお湯も出る。
そのドアの隙間から、光が漏れていた。
「………ゾロ?」
返事はない。
ドアを少し、開ける。
微かに滴の垂れる音。
「………あー」
予想通りと言うべきか。
狭いユニットバスに体を押し込めたような恰好で、緑頭の剣士は眠りこけていた。
「おーい、マリモー」
シャワーのコックをきちんと締めて、サンジはゾロに呼びかける。
「おい、朝だぞー…つか、腹減ってんだろーが、あ?」
徐々に大声になっていったが、やはり変化はない。
珍しく、いびきもかかずに眠り続けている。
ずぶ濡れの髪から滴る滴。半分開いた唇は水滴に濡れて。
「おいクソ剣士! このままじゃ食いっぱぐれるぞ!」
濡れた唇を見ないように、サンジはつむじを睨み付け。
仕方なしに、横の壁に蹴りを一発。
そして、脅迫。
「いい加減起きねぇと」
サンジの心臓が、ひとつ、強く跳ねる。
「キス、するぞこら」
しかし、何の変化もない。
熟睡しきっているようだ。
「…すんげーのすっぞ、舌突っ込むぞ、こら」
すっかり冷めたシャワーの滴に濡れた顎を、ぐいと掴んで上を向かせる。
強くなる口調に合わせるように、鼓動も強く早くなる。
「いーのか? あ?」
浴槽の中の身体が身動ぎした、ような気がしたが気付かぬふりをして。
唇を、重ねた。
冷え切った水滴がサンジの唇を冷やす。
それを吸い取るように、軽くついばんだ。
冷たくて、柔らかい。
筋肉バカでも唇は柔らかいんだな。
そんな考えに笑みを浮かべて、ゆるりと舌を口内へ。
侵入させる。
「……っ…?」
今度は間違いなく、身動ぎをした。
手が宙を泳ぐ。
サンジはそれを押さえ込み、にやりと笑ったが唇は離さずに。
そのまま歯列をなぞる。舌で、じっくりと。
「…………あ…」
白かった頬に、赤みが差した。
互いの口の隙間から漏れる息が、熱い。
「…ふ……」
潮時かな。
サンジは最後に音を立てて吸い上げると、ゆっくり離れた。
透明な糸が垂れて、落ちた。
「目ぇ覚めたかマリモちゃん?」
「…………てめ…」
睨むゾロの目に光が戻る、直前に。
サンジは手を放してドアの外へ退避した。
「おい待て、クソコック!」
と、言われて待つはずがない。
サンジは笑みを含んだ声で、
「さっさと降りてこい、朝飯出来てんぞ」
と言い残して部屋を出た。
「おいこら、セクハラコック!」
セクハラと来たか。
そう言われては、仕方ない。
サンジは怒りにまかせて飛び出して来たゾロの肩を掴んで、耳元に口を寄せて。
「なーに裸で出て来てんだ、どっちがセクハラだぁ?」
と囁く。それに対してゾロは、
「ふざけてんじゃねえ!」
と叫んで身をよじって、手を払い落とした。
「裸で出てきたのは、あれじゃ足りねぇってことか?」
「て、てめ…」
「朝飯、出来てんぞ。早く服着て降りて来い」
「……分かった」
かろうじて、それだけ答えたゾロは扉の向こうに姿を消した。
「…ごちそうさま」
サンジは唇を嘗めながらつぶやいて、階下のキッチンへ向かった。
冗談みたいに震える手を、ポケットに突っ込んで。
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